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21世紀のコンピュータはこうなる! ユビキタスコンピューティングを提唱したマーク・ワイザー1991年の論文

ユビキタス、ユビキタス。言葉としては良く聞くけれども、どういう意味なのか説明しろ、と言われるとなかなか難しいのがユビキタスです。

 
「ユビキタス」

ラテン語で「遍在」を意味するこの言葉は、実はMacやiPadと親戚関係にあります。
iPadの元になる概念を生み出したのは、アラン・ケイですが、アラン・ケイの所属していたゼロックスのパロアルト研究所、通称PARC(パロアルトリサーチセンター)では、GUIやオブジェクト指向、そしてレーザープリンターの他に今やもっとも重要な概念である「ユビキタス」が産まれた場所でもあります。

その言葉を生み出したのはマーク・ワイザー(Mark Weiser)博士。

それまで、コンピュータは一台何億円という、非常に高価なもので、大きな大学や、大企業にごくわずか導入されているだけでした。

しかし半導体の進歩で、「一人一台」の時代、個人が個人用のコンピュータを持つようになると予想したのがアラン・ケイでした。彼はそれを「パーソナルコンピューティング」と呼びました。

そしてワイザーは、さらにその考えを押し進め、コンピュータがより小さく、安くなって行き、一人が無数のコンピュータを使うようになる時代が来るのではないか、と予想しました。

そう、それが「ユビキタスコンピューティング」です。
PARCは90年代は一人が一台のPCを持つパーソナルコンピューティングの時代であり、21世紀は一人が複数のコンピュータを操るユビキタスコンピューティングの時代であると予想したのです。

その時代は、無線による高度な通信機能が世界中の隅々まで行き渡り、人々はいつでもどこでも世界中の情報にアクセスできる、という未来です。

そう考えると、みんなが携帯電話とPCを持ち、世界中で海外パケホーダイが使える今の状況とピッタリ一致します。80年代にここまで予想したワイザーの先見性がいかに卓越したものだったのかわかりますね。

マーク・ワイザーが1991年に書いた「21世紀のコンピュータ(The Computer for the 21st Century)」という論文でまさに今の世界が予想されています。

原文は英語なので、参考訳を載せておきますね。

21世紀のコンピュータ

マーク•ワイザー著

革命的な技術とは消えていく技術である。日常生活に入り込みつつ、やがてその生活の一部となる。

世界初の情報技術といえるのは、「筆記」である。

言葉で表現されている情報を物理的に保存する力は、言い換えれば、人間の限られた記憶を超える力だ。先進国では筆記は普遍的な存在に違いない。本、雑誌、新聞、それに看板、広告、落書きまでも、文章が目に前にあるだろう。おやつのラッパーでも言葉が書いてある。筆記という「技術」そのものは意識しなくても、常に経験しているのだ。筆記のない生活は想像しにくいだろう。

これに対して、コンピュータというものはまだ十分に生活と統一されたといはいえない。パソコンはが千万台も売ったにもかかわらず、パソコンそのものは我々の生活から一歩離れている。操作方法は、あまりにも複雑で、ユーザーの最終目標と関係ないことが多い。筆記に例えようとしたら、書役には墨とパピルスの知識が必要だった時代と同じであろう。

パソコンに対する「難しい」という先入観があることは、UIの問題に限らない。PARCの我々は、パソコンの「パーソナル」が間違えた解釈だと思っている。ノートパソコン、ダイナブック、いわゆる「ナレッジナビゲーター」などは全て過渡的な存在に過ぎないと思っている。

そういった機械はどれもコンピューティングを生活の一部にできない。我々はコンピュータに対する新たなる考え方を作ろうとしている。それは、コンピュータを人間の環境と統一させ、あえてコンピュータに対する意識を無くすことである。

これは、技術ではなく、人間の心理によって生まれる現象だ。あるものになってくると、あえて意識しなくなることが多い。例えば、看板を見れば、その看板にある情報を認識するが、自分が何かを読んでいるということは意識しない。情報工学者と経済学者であるハーブ•サイモンは、こういった現象を「コンパイリング」といった。哲学者であるマイケル•ポランニーは、これに関して「暗黙知」という概念を作り、「天際」、「手近い」、「外囲」と呼ばれることもある。要するに、道具の意識が無くならない限り、そのものは本当に道具と言えないのだ。

コンピュータを日常生活と統一させることは最近の開発の流れと多少違う。

「ユビキタスコンピューティング」というのは、パソコンを外へ持ち運ぶことだけではない。

最も優れたノートパソコンであっても、結局のところプラスチックで出来ている機械に過ぎない。筆記に例えると、ノートパソコンは本を一冊しか持っていない状況と同じだ。傑作であっても、更に何百万冊を印刷しても、本当の「文学」とはいえない。

更に、パソコンが音声やビデオを利用するとはいっても、本当の「マルチメディア」だとはいえない。それは、意識されないべきパソコンの画面が、常に意識されているからである。

特に望ましくないのは、「仮想現実」である。ユーザーは特別なメガネをかけ、手袋やスーツで仮想世界の中の装置を操作する。存在していない空間を体験させるという意味なら、間違えなく仮想現実には価値があるが、あくまでも土地ではなく、地図に過ぎない。仮想現実では、机、オフィス、天気、草、木、散歩、巡り会い…要するに、人生の深みは全て無くなるだろう。仮想現実の目標は、我々が常に経験している世界の拡張ではなく、無理矢理架空の世界を創ることである。

まさに、仮想現実とユビキタスコンピューティングはあまりにも違うため、我々は「現存実質」という言葉を作った。これ、コンピュータの「実質」を我々の現実の世界に持ち込むことである。

さて、技術に対する意識は果たしてどう消えていくのか?電動機と同じだろう。20世紀の初期では、工場では一ヶ所当たりに電動機が一個あったのに対して、電動機が小さくなるのにつれて、その必要はなくなったのだ。各道具や器械には、それぞれの小型電動機があったのだ。

自動車のマニュアルを読めば、電動機が22個あることが分かる。さらに、ソレノイドも25個ある。この装置はエンジン、フロントガラス、ドア等を操作させる。気を払えばエンジンのかけられた瞬間は気付くかもしれないが、そもそも、気付く必要はない。

現存実質のコンピュータは、比喩的にも実際にも透明となる。既に、光スイッチ、エアコン、ステレオ、電子レンジ等はコンピュータによって操作されている。こういった器械は、全て一つのネットワークで接続されるようになる。

だが、情報工学者である我々は、情報を直接送信し表示する器械を開発しようとしている。それに当たって、重視する点が二つある:位置と規模。人間が常に自分の周りを意識しているということで、コンピュータにも自分の周りの状況を把握する必要がある。現在のコンピュータは全く回りの環境を認識できないのに対して、将来のコンピュータが何の部屋に置いてあるのかさえ分かれば、それだけで役に立てるようになる。

こういった「ユビキタスコンピュータ」は、使い方によって大きさも変わる。

我々は「タブ」、「パッド」、そして「ボード」を開発してきた。「タブ」はポスト•イットに当たる。「パッド」は、紙、または本や雑誌のようなもの。そして、「ボード」はホワイトボードに当たるだろう。

今あなたがいる部屋では、そういったものはいくつあるの?よく見てごらん。
ポスト•イット、本の背、装置のラベル、エアコンや時計、そして数多くの紙があるだろう。部屋によるのだが、100以上の「タブ」、10-20の「パッド」、1-2つの「ボード」はあるかもしれない。そう。我々の目標は、一つの部屋に無数のコンピュータを設置することである。

初めて聞くと、「一つの部屋に無数のコンピュータ」ということは実に恐ろしい。まあ、電気のない時代に、「壁の中に無数の電線が入ってくるよ」といわれたら、それも怖かったでしょう。だが、電線と同じ、こういったコンピュータを意識することはなくなるだろう。

皆は、「コンピュータを使っている」ということを考えずに、ただ使うだけだ。

タブは現存実質の最も小さい一部だ。常に接続されているので、ポケット電卓や携帯電話の機能を更に拡大していく。そして、まだ存在していない機能も実現させるだろう。例えば、オリベッティ研究所で開発された「アクティブバッジ」とは、名刺と同じ大きさのコンピュータであり、パロアルト研究所などで通常利用されている。このバッジはビル内のセンサーで認識され、社員の位置を管理する。

この実験的なエンボディド・バーチャリティ(溶け込まれた情報環境)では、ドアは入室許可されたユーザーのみに対して開き、出勤した瞬間に部屋が入室者に挨拶する。

電話をかけられば自動的に転送され(※訳注:当時は実用的な携帯電話は発明されていなかったので電話の転送が必要だった)、管理職は常に社員のいる場所を知り、コンピュータの端末はディスプレイなどを自動的にユーザーの好みに合わせ、メモ帳も自動的に記入される。

これは、人口知能ではなく、ただコンピュータを我々の生活環境においておくことだけで実現可能なものだ。このバッジの例では、シンプルな設置でもかなり効果的に使えるのかよく分かるだろう。例えば、会議では誰が出席したのか、話題は何だったのか、全ての情報が自動的に保存される訳だ。

知人のロイ•ワント氏が、小型ディスプレイを持っている、ディスプレイ、カレンダー、そして日記の役割を同時に果たす「タブ」を開発した。これは、コンピュータのディスプレイの拡張ともなる。例えば、あるプログラムのウィンドウを最小化する代わり、そのウィンドウをタブに移すことができる。すると、画面はウィンドウだらけにならないし、プロジェクトの整理も簡単になる。あるプロジェクトを運び出すには、そのプロジェクトのタブをまとめるしかなくなるのだ。

「パッド」はタブのレベルアップといえるだろう。これは、紙にも、現在のノートPCとハンドヘルドコンピュータにも似ている。パロアルト研究所のボブ•クリヴァチッキは二つのマイクロプロセッサ、パソコンのディスプレイ、多ボタンのスタイラス、そして何100の端末に接続できるラジオネットワークを合わせ、このような「パッド」のプロトタイプを開発した。パッドは、ノートパソコンと似ても似つかない。それは、ノートパソコンをどこでも持ち出せるのに対して、持って行く必要のあるパッドは大失敗といえるからだ。パッドは、ジャンク・コンピュータといえるのだ(屑紙と同じ)。どこでも適当に拾って使うことができ、端末毎に個体性は特にない。

ある意味、パッドは実物化したウィンドウといえるだろう。ウィンドウというものは、パルアルト研究所で開発され、アップルの製品で普及することになった、一つの画面で複数のことを行う方法である。それから、20年に渡ってコンピュータの画面はほとんど大きくならなかった。

ウィンドウによるシステムは、よく机の形に例えられるが、果たして誰がそんなに小さい机で満足できるのだろうか?

これに対して、パッドは実際の机を使う。紙と同じように、一台の机にパッドは何台も使える。メモとして使えるし、オフィス以外のところにも置いておける。生活をコンピュータに限るのではなく、コンピュータを生活に合わせるのだ。パッドは紙くらいに薄くなっていくはずだが、紙より何倍も実用的だろう。

ボードの利用方法はいくつかある。家庭用なら、テレビ画面や掲示板として使えるし、オフィスなら掲示板、ホワイトボード、そしてフリープチャートとして使える。本棚として使えるとしたら、ボードからパッドやタブへ書籍がダウンロードできるだろう。だが、膝に乗せることはまだ紙の魅力の一つである。

これと同じように、ユーザーはボードに慣れるには少し時間がかかるだろう。
先ず、パッドとタブの普及が必要なのではないか。

パロアルト研究所のリチャード•ブルースとスコット•エルロッドが開発したボードは40x60インチとなり、解像度が1024x768、白黒である。ボードを操作するには、電子の「チョーク」を使う。このチョークは、接触しても、離れても使える。ボードの実験では、会議でも研究でも役に立てた。また、ハードウェアを開発するには役に立つのだ。

当然だが、ボードとチョークのソフトウェアは現在のパソコンのソフトウェアとずいぶん違う。例えば、チョークとキーボードの使い分け方はキーボードとマウスの使い分け方と遥かに違う。体形も関係あるだろう。例えば、背が低いユーザーは、ボードの上まで届かないので、マッキントッシュと違うメニューのデザインが良いだろう。

こういった「ライブボード」は、許可の必要がないくらい数多く開発し、会議室などに設置してきた。このボードを利用するにつれて、我々の研究員は「現存実質」の実用性を理解してきた。ライブボードは、室内だけではなく、遠距離でも非常に役に立てる。EuroPARCのポール•ドゥーリッシュとパロアルト研
究所のサラ•ブライとフランク•ハラシュは、遠く離れているボードで同じ画像を表示し、利用者の反応を調べた。大西洋を越えても、ライブボードで同時に同じ絵を描くことができた。

ライブボードは掲示板としても使える。データが多すぎる時のために、パロアルト研究所のマービン•タイマーとデービッド•ニコールズは掲示板の表示内容を観閲者に合わせるソフトウェアを開発した。操作は必要なく、アクティブバッジを持つだけでボードが自動的に対応した画面を表示する。

タブ、パッド、ボード等のプロトタイプはユビキタスコンピューティングの端に過ぎない。現存実質の凄さはこの端末自体の便利さではなく、こういったデバイスの組み合わせによる便利さだ。マウスやウィンドウと違って、これはインターフェイスではなく、ただのワークスペースである。

特に革命的なのは、タブが不活性なものを活躍させることだ。行方不明となったメモ用紙や本は自動的に見つかり、検索せずに必要な情報が出てくる。図書館の書籍がどこかに置いてあっても、タブによって見つけることができる。

発表の時、スライドの文字の大きさ、声の音量、照明の調整など、全て視聴者の好みに合わせられる。投票等のため、このようなソフトウェアは既に使われているが、タブによって更に普及するだろう。

ユビキタスコンピューティングを実現するには、3つの要素が必要である。それは、低価格コンピュータとディスプレイ、それらを繋げるネットワーク、そして、普遍的アプリを実現するソフトウェアである。近状で判断すれば、一つ目の条件はすぐに実現できるだろう。640×480の解像度(白黒)の薄型ディスプレイは既に販売されている。PCとテレビに相応しい大きさである。パソコンの値段が下がっていければ、ディスプレイの値段も下がり、解像度は高まっていくだろう。今から十年後、1000×800のディスプレイは1センチ以内薄くな
り、100グラムにもならないだろう。一つの電池で、何日間のパワーが持てると思われる。

大型ディスプレイは別の話だ。コンピュータのディスプレイがホワイトボードの代わりになるとしたら、近距離でも遠距離でも使えるようにする必要がある。接近すれば、パソコンと同じぐらいの解像度が必要だろう(1インチに80ピクセル)。このぐらいの解像度なら、一枚のホワイトボードには何千万のピクセルが必要となる。現在の最大ディスプレイでは、これの4分の1に過ぎない。値段は高いに違いないが、このようなディスプレイが増えるはず。

1986年にCPUの速度は1秒に数100万の命令を超え、毎年倍増していくと言われている。1994年頃にこの驚くほどの成長は遅速化すると思われることもあるが、その代わり、パフォーマンスが改善すると考えられる。例の100グラムのディスプレイはたった一つのチップで動くかもしれない。このチップは、1秒に何10億の命令を行い、16メガバイトのメモリを持ち、音、ビデオ、ネットワークの機能もあるだろう。このプロセッサはディスプレイほど電気を食わないはず。

補助的なデータ保存は内蔵メモリを更に拡大する。現在の開発の速度から予測しようとしたら、マッチブックと同じ大きさのハードディスクは60メガバイトを持てるでしょう。ギガバイトを持てる大型ディスクも普及するし、テラバイトの保存(アメリカ議会図書館の内容と同じ重さ)も普通に売るだろう。このとんでもないハードディスクがあるとしても、情報を限界まで入れる訳でもない。だが、情報管理の可能性はそれだけ増える。テラバイトさえあれば、古い情報を削除する必要はないだろう。

さて、プロセッサとディスプレイはこれから10年後ユビキタスコンピューティングを実現できるはずだが、ソフトウェアとネットワーク技術はどうだろう?残念だがら、楽観的に予測するのはやや難しい。現在のソフトウェアはネットワークをほとんど踏まない。それに、いわゆる分散コンピューティングはネットワークというものをディスク、メモリ等のネットワークではないもののようにしようとしているが、ネットワークなりの物理的な分散の強みを充実しない。これは、OSとウィンドウでよく分かる。

DOSやUnixのようなOSは、中心とするハードウェアとソフトウェアはほとんど固定されている。メインフレームやパソコンの場合、新しいハードウェアやOSをインストールするには電源を切る必要があるので、この仕組みは当然だろう。

だが、現存実質ではユーザーは端末の合わすのではなく、端末は環境やユーザーに合わすのだ。新しいソフトウェアはいつ必要になるか分からないし、そもそも全てのデバイスのシャットダウンするのが面倒すぎる。いわゆる「マイクロカーネルOS」なら解決できるかもしれない。カーネギーメロン大学のリチャード•ラシッドとアムステルダム自由大学のアンドリュー•タネンバウムはまさにこのような研究をしている。未来のOSは恐らく、この「カーネル」に基づき、短小化するにつれて柔軟化していくと思われる。

Windows 3.0やX Window Systemなどの現在のウィンドウシステムは、情報を表示し、固定したパソコンを前提にする。複数のディスプレイは対応できるが、アプリの移動は苦手なのだ(例えば、違うスクリーンや部屋の間の移動)。正確に動けるように、固定した本体と入力が必要である。これらに変化があったら、変化されたアプリが動かなくなる。ネットワークに合わせて設計されたXでも、アプリを固定する前提がある。この問題の解決方法はどれもまだ未熟である。ブラウン大学とヒューレット•パッカードが開発しているウィンドウの共有はほぼウィンドウそのものに限り、アプリにはあまり役に立たない。現存実質の様々な入力方法に対応できる仕組みはまだない。そもそも、アプリとウィンドウの関係を考え直す必要があるだろう。

このコンピュータを接続するネットワークの実現はさらに難しい。一方、有線のネットワークも、無線のネットワークデータ送信の速度は年々速くなっている。今のところでは1秒に1ギガバイトの有線ネットワークのアクセス費は高いが、そのうち安くなっていくに違いない。こういったネットワークは、全てのバンド幅を一つのデータストリームに尽くすのではなく、そのネットワークを複数の低速のストリームに分けるのだ。現在の携帯電話のネットワークは、何百メートルで、1秒に2-10メガビットの送信が普通だ。1秒に25万ビット
の送信もそのうち可能になるだろう。

他方、有線ネットワークと無線ネットワークの接続は大問題だ。研究は進んでいないわけでもないが、物理的に移動する機械を認識する仕組みの開発が必要である。しかも、無線のネットワークで想像できるチャネルの数はまだ非常に少なく、その幅も携帯電話の数を限る(50-100メートルの幅となる)。その制限があるなら、一つの部屋に置いてある何百台の機械をサポートできると考えられない。赤外線や電磁波によるネットワークならユビキタスコンピューティングを実現できるはずだが、今のところで野外では動かない。とすると、一つの端末に超近距離の無線、遠距離の無線、そして超高速の有線という3つのネットワーク接続が必要だ。この3つを有効させる普遍的な接続方法を開発せざるを得ない。

とにかく、ユビキタスコンピューティングの説明を書いても、必要となる技術をリストアップしても、なかなかその世界の実感は与えられない。しかも、現在の現存実質はあまりにも限られているため、発明されたばかりアルファベットによって名作の小説を想像すると同じぐらい無理である。なのに、少し想像して頂こう:

起きてコーヒーの香りを嗅ぐサル。数分前、目覚し時計は彼女の起きる直前のブツブツとした喋りに気づき、「コーヒー、要る?」と聞いたのだ。彼女は「イエス」と答えた。ちなみに、この目覚まし時計の分かる言葉は「イエス」と「ノー」しかない。

サルが窓の外を覗き、近所を眺める。ある窓から、陽射と隣人の塀が普通に見えるが。他の窓から早朝出かけた隣人の電子足跡が見えるのだ。プライバシ保護やデータ制限のためビデオは表示されないが、時間の記録と電子足跡を見るだけでサルは安心する。

子供達の部屋を覗くと、彼らは15分前に起きて今台所にいるというのが分かる。彼らは、母親が起きていることに気づき、声を大きく出す。

朝ご飯を食べながら、サルは新聞を読む。多くの読者と同様、彼女は紙の新聞が好みだ。社説の中の一言が気になる。彼女はペンを持ち、新聞の名、日付、項目、ページに線をつけてから、その一言を丸で囲む。ペンが新聞に連絡し、それで、彼女のオフィスにその一言の内容が送られる。

ガレージの戸の会社から電子メールが届く。彼女はその説明書をなくし、本社に連絡したわけだ。新しい説明書を送っただけではなく、古い説明書を見つける方法も教えることにした。戸の鍵にあるコードを入力すれば、無くされたら説明書はピーピーと鳴る。すると、ガレージで箱の後ろに落ちた説明書が鳴いてくる。表紙には、チップが付いている。まさに、彼女送ったような苦情メールを避けるためである。

通勤中でサルはフロントミラーで渋滞情報を確認する。渋滞もあるが、それより気になるのは、グリーンで表示されている新しい喫茶店である。高速道路を出て、渋滞にはまらないようにあそこでコーヒーを飲むことにする。

サルが出勤したら、フロントミラーのおかげで早く駐車できる。ビルに入ったら、オフィスの機械は彼女の設定を準備しておくが、彼女が実際にオフィエスに入るまでは実行しない。同僚に声をかけて挨拶するサル。

サルが窓の外を覗く。今日は曇り、湿気75%、午後雨でしょう、という天気予報だ。社内の方は、いつもと違って急用はない。この窓では3時間前の様子も確認できるが、今日彼女はほっとおくことにする。仕事中毒の仲間はこれほど遠慮しないだろう、と考えるサル。

すると、ドアの隣に小さなボタンがピカピカ光る。そう、コーヒーが出来上がった。

オフィスに戻っているサルがタブを拾い、友達のジョーに振る。サルとジョーは仮想オフィスを共有している。仮想オフィスの共有は場合によって異なるが、今回、サルとジョーは相手の位置情報とタブの内容を共有することにした。サルは、ジョーのタブ情報を小型化し、机の横に置いてあるタブで表示している。気になる情報があったら、簡単に拡大できるわけだ。

サルの机の上に置いてあるタブが鳴ると、「ジョー」が表示される。タブを拾い、ボードを付けるサル。ジョーの声が天井から流れてきて、気になる原稿がボードで表示してくる。

「この第三段落なんだけどさ、どうもうまくかけないんですよ。ちょっと読んでくれます?」

「ああ、いいよ」

段落を読んだら、サルが一つの気になる言葉を指差す。スタイルスで選択する。

「この「ユビキタス」という単語かしら。普段使わないからさ。ちょっと硬い
でしょう。書き直してみたら?」

「いいんじゃない。ところでサル、メリーさんから連絡あった?」

「ううん。誰だっけ?」

「先週の会議で出たあの人だ。君に連絡するって」

サルはメリーという人の記憶はないが、先週の会議のことなら覚えがある。前の二週間、6人以上の出席者の会議を検索したら、例の会議が出てくる。確かに、メリーという人はいた。いつも通り、メリーはちょっとした個人情報を他の出席者に共有した。これを読んだら、サルはメリーとの共通点に気付く。やっぱり連絡してみると面白い、と思うサル。会議後、個人情報が消えなくてよかったと…

この例でコンピュータがどのようにひっそり日常生活に入ってこられるか、分かって頂いただろう。だが、いかに便利そうだとはいっても、確かに道徳の問題もたっぷり生まれる。個人情報扱いはこの中の一つだ。一つの部屋の中、何百台のパソコンがその部屋に入ってくる人の情報を全て記録するとしたら、全体主義が簡単になるだろう。たった一つの犯罪用のタブがあるとしても、その一台でも十分ダメージを与えられるに違いない。

今日も、アクティブバッジや電子メモ帳はいかに便利かとはいっても、その情報が敵の手に入ったら大変なことになるだろう。同じ会社の同僚どころか、スパイやライバルの会社に奪われるとアウトだ。

幸い、暗号システムの技術は既に開発されつつあり、ネットワークの中で個人情報を安全に扱うことができるようになった。システムの設計の基本にすれば、個人情報がバレるはずはない。ユビキタスコンピューティングには現在の暗号システムより更に安全な環境を作る可能性がある。例えば、デジタルペンネームを使えば、クレジットカード番号、住所、社会保障番号等を送信する必要はない。

カーネギーメロン大学のジム•モリスはユビキタスコンピューティングのセキュリティ問題を解決するには、コンピュータのセキュリティ設計を物理的なセキュリティ設計に基づく必要があると述べた。例えば、泥棒が侵入できても、指紋を残すだろう。これと同じように、モリスが想像している世界では、コンピュータをハックしても「デジタル指紋」を残すことになるだろう。

コンピュータを目立たないようにすれば、現存実質の世界ではあえて人間と人間の間のコミュニケーションはそれだけ増える。現状では、普通の会社員はパソコンに向かって仕事してばかりいて、隣に座っている同僚の存在を認めないことが多い。そして、仮想現実では現実の世界が消えてしまう。これに対して、ユビキタスコンピューティングは、現実の世界を更に深く経験できるようにする。人間の交流をそれだけ簡単にしてくれるわけだ。

パロアルト研究所の我々は、ユビキタスコンピューティングがこれから20年間を渡って普及することを予測している。パソコンと同様、ユビキタスコンピューティングは根本的に新しい発明ではないが、日常生活を簡単にすることによって、大きな革命になるに違いない。出版の進化に例えると良いかもしれない。現在売っている本は半世紀前に売っていた本とほとんど変わらないが、コンピュータによって出版業界の速度、または柔軟性はそれだけ高まってきた。

コンピュータやタブが普遍的になったら、情報の価値と意味は大きく変わる。「あのドレス、誰が作った?店の方で余っているかな?先週気に入ったスーツのデザイナー、誰だっけ?」周りのコンピュータは、こういった質問を簡単に対応できる。

また、ユビキタスコンピューティングは「オタク」の人数を減らすだろう。

10年代や20年代には、鉱石ラジオが趣味として流行っていたのに対して、ラジオが普及したらよっぽど少なくなったのだ。これと同じように、現存実質のおかげで、技術に向いていなくてもコンピュータが使えるようになるのだ。

そして、現存実質は情報過剰の問題を解決するだろう。よく考えれば、森の中の散歩はコンピュータより情報に溢れている。だが、なぜか人間は散歩をしても情報過剰だと思わない。コンピュータを人間の生活に合わせれば、コンピューティングも散歩と同じぐらい快適になるだろう。

これからの10年は、一体どのようになるのでしょうか。
楽しみですね

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